(以下、ベトナムに限らず、非日本人すべてに対して言えることですが)
良く色んなインタビューやオフショア関連記事を読むと、「ベトナム人は真面目だがシャイだ」「ベトナム人は創意工夫が苦手だ」等の「人種分析」が書かれています。基本的には文化的・社会的背景を根拠に、実体験を含めて書かれているものも多く、明らかに内容的に間違っているものはないでしょう。その通りだと思います(たまにとんでもない内容もありますが・・・)。
が、それらはあくまで「印象」の「分析」でしかありません。メディアやジャーナリスト、コンサルタントがこのように「分析」するのは良いでしょう。それが彼らの仕事ですし、閲覧者としてもそこから得られる有益な情報は少なくありません。
ぼくはベトナムで会社を立ち上げてから1年半、「まだ」一年半の若輩者ではありますが、現地で社長仲間と飲んだり話したりする度に、良く同様の印象分析的議論になることがあります。「ウチの従業員は言うことを聞かない」「ウチのはおとなしすぎて積極性がない」といった具合に。そのうちに話はエスカレートし、視点は拡大し、「ベトナム論」「ベトナム人論」に発展していきます。「ベトナム人って、こうだよね」「そもそもベトナムというのはこんな国だよね」なんて、いつの間にか皆、神の視座から物事を語り始めます。
これはまあ、半分真面目、半分ストレス発散みたいなもので、ぼくもそれなりに参加するのですが、その一方で違和感を抱え続けていたことも事実です。
「本当にそういうことなのだろうか・・・??」
「ベトナムって、ベトナム人って、そういうものなのか??」
違和感に対する答えはすぐには見つからず、どうも釈然としない気持ちを抱えながら今に至っているのですが、最近なんとなく自分なりの答えが見えてきたような気がします。
ベトナム人にも、色んな人がいます。
明るい人も暗い人も、対人関係が得意な人もそうでない人も。積極的に物事にあたる人もいれば、日和見主義の人だっています。人によって違うのです。日本人がそうであるように。勿論、国民固有の特性みたいなものはあるでしょう。しかし、それにしても、人によって特徴は様々です。
まあこれは当たり前の話です。
問題はここからです。
「どこの国にも色んな人がいる」というのが現実だとしても、異国においては、そのキャラクターの違いをしっかりと把握することは、とても困難と言えます。
例えば日本であれば、仕事中の何気ない会話、ランチの時の雑談、飲み会でのよりプライベートに踏み込んだ情報交換、、、などを通じて、その人の性格やタイプは理解できますし、個人のことが理解できれば、その集合としての組織内の関係性を類推することはそんなに難しくありません。
例えば引っ込み思案なA君がどうやら社内で少しのけ者にされてるらしい、それがストレスになって仕事のパフォーマンスにも影響しているようだ、といったことは、大体分かりますし、適宜フォローもできるわけです。
異国(特に非英語圏)では、それが難しい。
日常的な例を挙げると、仕事中にオフィス内で交わされるベトナム語の会話を、ぼくはほとんど理解できません。小耳に挟んだ情報や雰囲気でもって、個人の立ち位置やモチベーション、人間関係をはかることは、不可能と言って良いほど難しいです。
さらに例を挙げましょう。
「ベトナム人はキャリアパスに関するイメージが乏しい」というのは、多くのベトナム現法経営者にとって頷ける印象でしょう。
「ベトナム人は基本”できない”と言わず、”大丈夫です、問題ない”と言って、失敗することが多い」というのも同様かもしれません。
ただし、これらの印象について、ぼく達のような外国人マネジメントは、「各メンバーレベルにおいて、本当にその印象通りなのか」を確かめ、把握する術を持たない場合がほとんどです。
スタッフの言葉は、コミュニケーターの通訳というフィルタを経てしか、ぼく達の耳には届きませんし、おそらくその過程で様々な付帯情報が欠損してしまっていることでしょう。細かいニュアンス・温度感・控えめに隠された意思のようなものが。
すると、ある程度集団に対する印象で物事を判断せざるを得なくなります。普通に考えるとね。
ここに落とし穴があるような気が、最近しているのです。
多分、おそらく、もしかすると、その「集団に対する印象」は必ずしも正しくなく、そのためにいつも少しずれた意思決定をしてしまってるように思えてならないのです。
特にベトナムにおいては、その傾向が強いと感じます。日本人に非常に近い部分を持つベトナム人相手だからこそ、「伝わらない枝葉の部分」に何かとても大切なものが含まれているような気がしています。
とは言え現実には、実際言葉も分からない中で、一人一人の個性を正確に認識することはできません。現実的ではない。
ぼくにできることは、ついつい大きな印象に従って意思決定したくなる気持ちに歯止めをかけて、言葉の問題を超えて、できる限り実際の個人と個人の集合としての組織そのものを注視し続けることであり、これは一見些細なことのように見えますが、とても大切だと感じています。
まとめましょう。
コンサルタントやアナリストではない、現地でマネジメントするぼく達は、決して「全体としての印象」をベースにして個別意思決定を行なってはいけません。異国人のマネジメントは、実はそこがキモであり、丁寧な人間観察とこまめなone to oneコミュニケーションによって個人個人の特性を「本当の意味で」掴むことでしか、組織のブレイクスルーは望めないのです。
※「お前がベトナム語をマスターすれば済む話だろ!」というツッコミは華麗にスルーさせて頂きます。
ベトナム日記・その4【ベトナム人マネジメントにおいて、大切なこと。】
39歳誕生日の抱負
FBより転載。
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皆様、温かい誕生日コメント、どうもありがとうございます。
39歳になり、とうとう40代に王手です。40代って。お父さんの年齢やないか。まあお父さんやけども。
さて、ベトナムに来て1年と5ヶ月が経とうとしています。まだまだひよっ子ですが、3ヶ月前にとうとう家族も連れてきて、簡単には帰れないな、と一応背水の陣的に真摯な気持ちでいます。背水の陣、とかいっちょ前なことを言いましたが、ベトナムで働いてると言っても、自己資金で独立系企業を経営されている社長の方々とは異なり(彼らは本当に素晴らしい、掛け値なしの尊敬対象です)、親会社100%出資の甘ちゃん駐在でしかありません。約1年半を振り返っても、ただ「誰でもできるような仕事」を「誰でもできるようなクオリティ」で運営してきただけで、何も胸を張ることなどありません。いやほんま、ベトナムでのコストセンター子会社経営なんて、誰でもできるで、マジで。まあせめて「サボらず甘えずプロ意識を持って一生懸命」にやってきたくらいですかね。個人の成長についても、自分では良く分かりません。評価も「他人が下すもの」ですしね。過信することもないし、自信喪失することもない。何とも不思議でニュートラルな精神状態が続いてます。動じなくなった、ということなのかな。。。
今現在の心地としては、実はとても複雑な心境で、様々な価値観が同居し、確たる自分自身を持てないような感じです。ベトナム人と日本人、異文化について、個人主義と全体主義、戦争に勝った文化と負けた文化、労働の意味、プロフェッショナリズムの形、大好きな日本と不思議なベトナム、規律と自由、主張と従順、清潔と不潔、などなど、色んな「事象」と「それに対する分析的思考」が心中で常にカオスの様相を呈しており、その状況を楽しむでもなく、かと言って性急にそれらを整理して答えを出したい気持ちでもなく、混沌とした浮遊感にただただ身を任せている、といった状態です。
あらゆることに関して「正しい答え」なんてどこにもないのだと思います。世界中に人がいて、生活があり、「行動」がもたらした「結果」が積み上がってそれぞれの人生を紡ぎます。
時間をかけずに理解した気になることは簡単です。が、本当の理解には、とてもとても長い時間がかかるものだと思います。もしかしたら、目指すべき地点になど、たどり着けないかもしれない。すなわち「理解」とか「解釈」するのではなく、「観察」しながら日々全力で「思考」し続けるしかないのが、「異国で働く」ということなのかもしれないなあ、なんて感じてたりする今日此の頃です。
とは言え、ただ流されるような生活は好きじゃないし、性に合いません。「自分にしかできない」とまでは風呂敷広げませんが、「自分だからできる」仕事を、いつかしてみたいものです。40代を目前に控えたこの一年、少しでもその一歩を踏み出せればいいなあ、とあくまで緩く考えながら、公私充実を目指して日々子育てに勤しむ所存です。
皆様におかれましては、何卒今年も一緒に飲んだくれ、毎度先に寝入るぼくを生暖かく見守って頂ければ幸いです。恐惶謹厳。
ベトナム日記・その3【ベトナム人と働くということ】
ぼくは今、ベトナム・ホーチミンシティでWeb/Smartphoneのオフショア開発会社を経営しています。
スタートしてもうすぐ2ヶ月が経ちます。
2ヶ月経った所感としては、まさに山あり谷あり、気苦労と悩みの日々の中でもがきながら、しかし確かに将来の可能性を実感しつつある、といったところです。
一番の苦労は、やはり「人」です。
同じ人間とは言え、異文化で人格形成されてきたメンバー達相手に、日本人相手とまったく同じやり方は、当然ながら通じません。
【月イチ社内懇親会にて・・・】
在ベトナム日系企業の経営者間で良く言われることでもありますが、ぼくが実感的に抱くベトナム人の特徴は、ざっと以下のようなものです。
・非常に真面目
・子供のように純朴
・ぼくなんかよりずっと頭が良い
・指示された仕事をこなすのは得意だが、自分の頭で周辺状況や前後関係を考えて柔軟に対応することが苦手
・給与の多寡でジョブホップするが、決して金だけではなく、夢や目標、可能性を重視する傾向がある
・見栄っ張りでプライドが高い
・総じて、全体的な経験に欠ける
頭が良い、というのは、ほとんどの従業員がトップクラス大学(院)を卒業しており、2つ以上の大学に編入している人も少なくないことからも類推できます。多分、みんな地頭は相当良いと言えるでしょう。
その上少々お固く感じられるくらい真面目(もちろん個人差はあります)なので、吸収力と成長力には目を見張るものがあります。
純朴さ故の可愛げもたっぷりで、共に働く仲間として、とてもやりやすいと感じています。
一方で、彼らと彼らを取り巻く環境はまだとても若く、とにかく経験がない人が多いです。
ここで言う経験とは、単純にスキルの面だけでなく、「社会人として」「労働者として」といった全般的な”前提条件”に関する経験を含みます。
生活における”前提条件”を考える時、当然ながら文化の違いに起因する場合がほとんどで、仕方がない部分でもあるのですが、そういったカルチャーギャップを差し引いても、絶対的な経験不足というのを痛感することが実に多く、これはかなりやっかいです。
また、真面目で純朴な性格の裏返しとも言えますが、視野が狭いように感じる場面が多々あります。
こちらが意図を持って具体的な指示をしても、それを「自分が一番良いと思う方法」に勝手に置きかえてしまい、結果求めていたアウトプットが出ず、二度手間になってしまう場面が頻繁に見られます。
例えばあるミッションが課せられた時、多くの日本企業では「それについて自分が持っている知識」を考慮しつつ、他の可能性も調査し、課題やリスクをある程度潰した上でアウトプットを出すことが求められます。
ベトナムのスタッフは、多くの場合、単に自分の知識や考えのみでアウトプットを出します。
そうして提示されたアウトプットは、当然ながら指示した方が満足する出来栄えになっておらず、今度は「何故このやり方が不適切なのか、こちらが求めているものは何なのか」という”仕事のやり方”的な部分から説明を繰り返すことになり、いたずらに時間だけが過ぎてしまうわけです。
マネジメントの経験がある人には、こういったロスがどれだけ痛いか、お分かり頂けると思います。
上記のような問題は、何も難解なミッションに限った話ではなく、日常の小さな雑務においても度々発生します。
以上の特徴は、とにかく日々の業務における「スムーズな業務の進行」に少なくない影響を及ぼします。一つ一つは些細なコミュニケーションミスとも言えますが、塵も積もれば・・・的に経営にもボディーブローのようにダメージを与えます。
おそらくベトナムに限ったことではないですが、オフショア企業が成功するためには、「初動の教育」がキモだと痛感しています。
コミュニケーションの方法、指示の意味合い、クリティカルポイントの共有、役割の認識、、、など、日本だと「分かっていて当然」と思われる細部に至るまで、細かく丁寧に伝達・確認を行うことが必須です。
(※ここで言う「初動」とは、主に「起業後の初動」「個別ミッション発生時の初動」など複数の意味合いを持ちます)
つまり、ポイントは「いとも簡単に起こってしまう様々なロス」をいかに潰せるか、にあると言えます。
「視野の狭さ」は、ビジネスパーソンとしてのコミットメント面にも見られます。
例えば、チームであたるべきプロジェクトがあった時、そのチームとして責任を持つべきは「依頼された期間内に、依頼された内容のものを、然るべきクオリティで納品する」ことです。
実務上ではタスクをブレイクダウンして役割分担を行うわけですが、結果として、チームからクライアントへ「完成物の納品」という形で責任を果たせねば意味がありません。その点においては、個々の役割分担は、大きな責任の元に存在しており、個々人もその認識を持つべきです。
「自分がやるべき(とされている)ことをやっているからそれで良い」わけではありません。逆に、少し乱暴な言い方をすると、大きな責任さえ果たすことができれば、個別のプロセスは何だって良いくらいです。大きな責任を認識しているからこそ、助けあいも生まれます。
しかしながら、ぼくが出会ったベトナムのスタッフには、どうも上記の「大きな責任」に関する自覚が欠如しているように思えます。
スケジュールに悪い意味でこだわりがなかったり、全体進捗に関して理解・認識しようとしなかったり。問題発生時、客観的に物事をとらえてクールにロジカルに状況を分析し、解決方法を考えるべき時に「いかにそれが自分のせいでないか」ばかりをとうとうと語ったり。
結果ぼく達日本人スタッフが血相を変えて駆け回ることになります。とほほ。
何だかベトナム人の悪口を書いてるみたいになってきましたが、断じてそういった意図はありません。
むしろ、問題が上記のような内容であるからこそ、逆にぼくは希望を感じさえします。
何故なら、上記の問題はすべて「経験不足」という単純な原因から来るものであり、解決可能なことばかりだからです。
彼らはただ、「まだ知らない」だけなのです。一片の悪気もなく。
・共通認識がなければ、何度でも説明すればいい。
・仕事の仕方が違うのであれば、教えればいい。
・責任とは何か、行動をもって示せばいい。
悪人を矯正させるのは難しいですが、知らない人に教えることは容易いです。(理屈では、という意味です。実際はなかなか大変だけどね・・・)
繰り返しになりますが、彼らは地頭が良く、真面目で、斜に構えることを知りません。
さらに「知らないことを知る」ことに貪欲です。
自分達の住む国の成長を信じているから、自分達も成長しなければという「自己コミットメント」を持っています。
そんな彼らが黙々とPCに向かっている背中を見ていると、ぼくは本心から希望に溢れた未来を夢見ずにはおれません。
自然とこみ上げる笑みを噛み殺しながら、異国でチャレンジできる醍醐味と僥倖を感じます。
勿論教えるだけでなく彼らから教わることも少なくないのですが、それはまた別のエントリにて。
ベトナム日記・その2【ベトナム人の向上心に刺激されて英語学校に通い始めました】
ホーチミンシティの街を歩いていると、昼間から路上で博打をしている人を良く見かけます。
カードゲームだったり、ベトナム将棋だったり、コーヒーやお茶片手に、その辺の歩道の上に車座になって、ワイワイ騒いでいる姿は、とてもありふれた光景です。主に中年以降の男性が多いですが、たまに女性が混ざっていることもあります。
まともに働いている様子もないので、あの人達はどうやって生活しているんだろう?と不思議に思うことも少なくありません。
【買ったはいいが、ほとんど使っていない辞書・・・】
一方で、若い人の真面目さには驚かされます。
仕事が終わってから学校に行く、なんてのはザラです。当社のスタッフも、何人か終業後に語学学校に通っているようです。
彼らがプライベートを自己研鑽にあてる理由は、とてもシンプルです。
「今持っていない知識・能力を身に付けて、良い仕事に就いて、良い給料をもらいたい」
この一点です。
彼らに刺激されて、ぼくも英語学校に通い始めているのですが、学校でのdiscussion timeにクラスメイトに対して「どうして英語を勉強しているの?」と聞いても、まず100%上記の答えが帰ってきます。このエントリなんて、まさにそう!と膝を打つ思いです。
翻って、日本ではどうでしょう?
社会人になっても何らかの勉強をしている人は、とても少ないように思えます。10年後、20年後、この差はどんな形になって現れるのでしょうか?
ところで、ぼくが英語学校を探す時、「ベトナム人講師でなく、ネイティブ講師がいる学校」という条件で選びました。ベトナム人の英語は独特で、相当語学力のある人でもお世辞にも「綺麗な英語」とは言えないからです。せっかく学校に通うのに、ベトナム訛りだと意味ないもんね・・・
(ちなみにこの条件に「日本語対応」というのを加えると、値段が一気に跳ね上がります。。。)
ベトナム語訛りについてもう少し詳しく言うと、そもそもベトナム語では子音の発音が独特で、例えば「music」を「ムシッ」と発音したりします。(もちろん少なからず個人差はありますが)
クラスメイトに「What kind of ムシッ do you like?」なんて聞かれても、絶対に聞き取れません。。。
結果として、イギリス人teacherのクラスに入ることができたので、まずは一安心、と言いたいところですが、イギリス人の喋り方もなかなか聞き取りにくいんですよね・・・まあ、自分のヒアリング能力の低さが一番の問題なので、Skypeでのオンライン英会話も併用することを考えています。
ちなみに、英語学校のクラスメイトは、みんな18-22歳のベトナム人。
ベトナム人は、日本人に比べると年齢に対して随分子供っぽい印象を受けます。背が低く、小柄なこともありますが、キャラクターがとても純朴かつ天真爛漫で、20前後の子なんて中学生か高校生にしか見えません。
しかもみんな、pre-intermidiateクラスからそのまま上がってきたらしく、そもそも仲が良い。休み時間はいつもキャッキャしてます。それをニコニコと作り笑いで眺めるおじさん二人・・・
ただでさえ15歳以上も年が離れているのに、もう何というか、ジェネレーションギャップは加速するばかり。
・・・そんなこんなで四苦八苦しつつも、週3回、10週間のカリキュラムを、途中で心を折ることなく頑張っていきたい、と願ってやまない今日この頃です。
Xin chào!
ベトナム日記・その1【ベトナムで働くことになりました】
随分とブログをさぼってしまいました。
今はほとんどfacebookで事足りるので、短い文章でもそれなりの気合が必要なブログはどうしても疎遠になってしまいます。もちろんネタがなければ別に無理矢理書かねばならない理由もないわけで、自分自身に失望して閉鎖するようなことはせず、これまで通りのんびり続けていきたいと思ってます。
でまあ、今回書くことができたから久しぶりに更新するわけですが、人生とは実に面白いもので、実はなんと今ぼくはベトナムで生活を送っています。
何やってるかと言うと、ベトナム・ホーチミンシティにて、現地法人の代表として、日々愉快な仲間達(ベトナム人)と一緒にビジネス・スタートアップにいそしんでいます。
こんな環境、つい3ヶ月前には想像もしていませんでした。
【バイクの上に寝るおじさん】
日本法人のBranchなので、社長業とは言え純粋なアントレプレナーシップについて多くは語るつもりはありませんが、やはり新しいチャレンジは良いものです。さらに、チャレンジは極端であればあるほど楽しいと思います。
11月時点ではベトナムに行ったことも行きたいと思ったこともなかったぼくが、
12月に初めて視察でベトナムに訪れ、その後即進出の意思決定と諸々の調整を行い、
1月に人材採用面接とオフィスの内見を行い、現地法人設立の準備を粛々と進め、
2月末から渡越し、まもなく一ヶ月。
結構な充実感と果てのない希望、そして同じくらいに膨らみ続ける漠とした不安とともに、しかし延々と照り続ける太陽と怒涛の如きバイク集団に追い回されていちいち感傷的になるヒマもなく、ただただ前だけを向いて走り続ける日々です。
ベトナムに来る前、ぼくはかの国に対してほとんど具体的な印象を持っていませんでした。
せいぜい「三角形の笠をかぶった農民達」「ベトコンと呼ばれた恐ろしいソルジャー達」くらいのイメージが脳裏に一瞬よぎるくらい。それにしたってうっすいもので、「プラトーン」や「フルメタル・ジャケット」「7月4日に生まれて」などのベトナム戦争を題材にした映画についても、アメリカ視点で地味な印象を感じたのみ、という感じでした。
2012年12月に初めて訪れた際に、これまで持っていたおぼろげな印象と実際のベトナムが、余りにも違っているのに驚きました。
タンソンニャット国際空港に降り立ったぼくの眼前に広がっていたのは、それまで持っていた地味で暗いイメージとはまったく正反対の、笑顔と活気に溢れた国でした。人懐っこくてとにかく明るくよく笑う人々、車道を埋める無数のバイク、一人あたりGDPが世界100位以下という事実に似つかわしくない高級車ディーラーやスマートフォン専門店の乱立、秩序なき物価、歩道に出店する様々な屋台。
貧しさと豊かさがないまぜになった不思議な空間がぼくの心をとらえるまでに、さほど時間はかかりませんでした。
さらに何人かのベトナム人と交流する中で、ぼくは一つの事実に気付き、日本との対比も含めて非常に強い衝撃を受けました。
彼らは”自国と自分達の成長”を100%信じて生きている、という事実です。
一時の大きな繁栄の残滓を享受し続けてはいるものの、票田たる老人優遇の方向性から逃れられず、ひたすら減っていく若年層人口につけを回すしかない、国家として衰退の未来しか見えない日本とは、まったく正反対の状況に驚かされたのです。
ベトナムの人達は、「今は貧しくても、絶対に豊かになれるのだ」という確信を持って生きています。
まるで日本の高度成長期のようなその姿は、鬱屈した日本社会に疲れ果てていたぼくの心に新しい風を運んでくれました。統計データからは見えないアジアの可能性を実感した瞬間でした。
ベトナム人の平均年令は27.4歳(日本は44.6歳)。
とにかく若い彼らとの仕事には、日本とはまったく違う苦労と楽しみがあります。
毎日喜んだり悲しんだり盛り上がったり落ち込んだりしながら、願わくば若い彼らと共に成長していけるように、37歳のチャレンジを楽しみつつ頑張っていきたいと思います。
Hẹn gặp lại!